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ONEonONEヘアサロン suffcuts の bosscuts のブログ

長野県東御市にあるDO-S&ハナヘナ専門ぼっち&おしゃべり&おせっかいヘアサロン ・ 人生、恋愛、歴史、経済、宗教なんでもござれダメージヘアを語る隙間にアナタのその日のキモチさえケアしてしまうよと豪語してはばからない恥知らず似非心理マジシャン(自称)スタイリストbosscuts の販促ではないでも集客目的ではあるのかもしれない本気かよ、ってつまりごく個人的欲求の吐き捨て場へようこそ ・ No! Treatment! がモットーだからツヤツヤサラサラとか馬鹿なことは言いませんから

ありがとう、なんて死に方

こういう記事につい目を止めてしまうのは、実は案外無責任な興味がさせることだったりすることもないこともないかもよ、なんて思う人も案外少なくなかったりなんかして。

って相変わらず歯切れが悪いでんな。

 

grapee.jp

 

わたしなんか、”像のはな子” 知りませんでしたもの。

全然、知りませんでしたもの。

聞いたことくらいならあったのかもしれないけど、忘れてたのかもしれないですもの。

 

1947年生まれっていう先輩の死を翌日に知るってことは、せっかくその事実を知らされても所詮知らないことと変わらないような気がしてしまったので、例えば”100万人の大フィーバー(死語)” とか ”書籍化されて多くの人の心をうちました” とかっていわれても、落ちてくるものは何だか嘘臭くてでまかせっぽくてってつまり、はな子にはなんも関係ないじゃんね、なんてそんなことばっかとか。

 

 

ムスメちゃんがまだ幼稚園とか通ってた頃、夕方のお散歩なんかの際に時々地元にある動物園とかにもたまに立ち寄ることがありました。

まあ、そこは ”長野県で一番最初に出来た動物園” っていう由緒正しき動物園ではあるんですけれども、それこそ当時の様子といったら ”最古のまんまかよ” とかってつまりそんな感じ。すさんだ感じ、寂れた感じ、悲しい感じ。

幼い子どもには、何だかいろんな動物いるし、いろんな声が聞こえるしウロウロしてるし、結構臭いし、ってとりあえず日常からはみ出すような興味は案外あちこちに転がってたようなモンだったのかもしれないんですけど、わたしなんか所詮薄情ですから、ライオンにしても熊にしてもチンパンジーにしてもタヌキにしてもみんな一緒、ペンキが剥げて錆びの浮いた狭い折の中に閉じ込められた、人間と少しばかり見てくれが違ってしまったばっかの生物たちの悲哀みたいなもんばっかがぎしぎしと伝わってくるばっかの空々しさで、実はその動物園に向かうことがあまり好きではありませんでした。

勝手なもんです。

 

 

人間を誤って死なせてしまったことははな子にとっても死んでしまった方にとってもその近親者関係者の方々にとってもこの上なく不幸なことに変わりはなかったと思うのだけれど、そのせいで鎖に繋がれるって処置を受けて人間不信になってやせ細って、ってつまり悲しい時間を過ごすことになってしまった、と。

けれど、やがて優しい飼育員さんと出会って心ほだされて、そんな有り様こそがふたたび多くの人々の心に止まることになった、と。

 

で。

 

 

”波乱に満ちた生涯を生きたはな子”

 

 

 

 

なんだそりゃ。

 

”たくさんの笑顔をありがとう、ゆっくり休んでください”

 

 

 

波乱に落とし込んだのは誰の仕業なんだよ。都合だったんだよ。

なんてこと言い出してしまったら、もう動物園なんか行ける資格もあったもんじゃないっすよね、と。

 

わたし、茶臼山動物園とかのサル山でも軽く半日くらいはぼぉーっと眺めていられる自信あります。

全然飽きない。

「すみません、ちょっとお掃除したいんですけど……」

って、飼育員の方にすっごい邪魔がられたことあります。アホかと。

 

 

 

ウチのコマさん(猫6歳♀)なんかを眺めてるときとか、たまにぼけっと思ったりするんですね。

”このヒト(勝手人称)、ウチに連れて来られて、果たして幸せだったんだろか? 所詮猫族はコイツばっかだし、キャットフードしか食わせてもらえないし、余計なことしたらすぐぶっ叩かれるし、要するにつまんないだろうし” とかそんなこと。

人間以外のものと暮らしたことある人なら、そんなことくらい普通に考えたもんじゃないかしら。

ベランダで布団干してるときとかにふと表を見下ろすと(わたしんちボロマンションの3F)、すっげボロい猫がぎすぎすな気配で徘徊してるのとかたまに見かけるわけですよ。最近は野良猫の姿減ってきてる気はするんですけれどもそれにしても。

そんなときにですね、これって完全に飼い主としての、人間としてのエゴですよつまりそんなことわかってんです、”おいコマさん、あんたどう思うよ? あんな姿とあんたのこんな有り様を天秤にかけてみてよ、わかってるって、そりゃあタチのわるい思考さ、思い上がりさわかってるって。それにしてもだよコマさん、あんた、わたしって人間に少しでも感謝したくはならんかね。ちょっとばかしぶっ叩かれたからって、それは人間側の秩序を乱しちまったあたしが悪かったんですよわかってますって、なんて、仕方なくわたしの手とかぺろぺろすんじゃなくて、例えば ”ありがとさんです、ダンナ” なんてすこしも遠慮の欠片もなく感謝してみよっかな、なんて気持ちになってみたりすることって、ないかい? わたしのこと、好きかい? なんて抱っこしてみるんだけど、すっげイヤそうな声出して降りたがったりすんのよね。

 

うーむ。

 

 

 

いや、いやいやそれって真理かよと。

 

 

 

 

例えばはな子ちゃん(たぶん♀のはず)は、” ありがとう” って死んだんだろか。

全方位的に。全面的に。

 

アホか。

そんなもん、人間だってちょっとやそっと捜したくらいで見っかるもんかよ。

わたしなんかきっと、”くっそあんにゃろばっかはぶっ殺してから死にたかったっつの馬鹿っぽいぜなんでこんなトコで死ぬんだよ俺ってばアホかっ” なんて地獄の閻魔様でさえ舌抜くのすらメンドクサイってベルトコンベアでミンチに流して三途の川に流しちまおう、なんて例えばそんな醜い心境で死ぬのに決まってらって思うんですけど、それにしたってよ、ってハナシですよ。

面倒臭い? わかってるっつの。

 

 

 

北朝鮮に拉致されているらしきめぐみさんやその他大勢の方々と、生まれて2歳でタイから日本へ連れて来られたはな子ちゃんを同軸で語りたがるのはフェミニズムこじらせたアホばっかが勝手に言ってろってハナシですよねわかってるってば。

あっちにはきっと片一方の生き物の都合ばっかではあったりするかもよなんですけど、とりあえず友好とかそんな感じの関係性とか目的があって、そっちには片一方ばっかの生き物の片一方ばっかの企みばっかで奪われてんだな、ってつまり一緒なわけないわかってます。普通に馬鹿なだけ。

 

 

 

記事は記事なのだから記事らしいマナーであったり定型であったり需要とか、効果とか、つまり本音ばっかじゃないこと折込済みで発信されて然るべきは当然と思うし、むしろそれに接すること感じることはむしろ受けて側のマナーというか正確に自立した倫理というかそれはちょっと大げさかもしれないけど、それにしても取り分けバランスとかってつまり、鵜呑みにするばっかの馬鹿の反応ばっかを怪訝に先読みして気を咎めてわたしは何だかヘソ曲げてんのか。

 

 

一頭の像の死を、その有り様だけを眺めて、例えば ”ありがとう” とか、どっちかったらあんまり言えない人間なんですわたしなんかアホですからまったく。

 

だって。

捕らえた者の側から奢る ”波乱に満ちた人生” ってなんだろか。

”人間不信” ってなんだろか。

優しい飼育員さんのおかげではな子ちゃんが辿り着いたらしき有り様に、捕らえた者の側が覚える共感やら感動とかって、つまりなんなんだろか。

 

ちなみにわたし、”感動” とかって例えばそんな安直な表現の用い方が大嫌いです。

今年はオリンピックイヤー。今からすでに悪寒が走ります。ムズムズします。

”感動をありがとう”

簡単に言うなアホか。お前がその感動のために払ったものってなんだ。

”勇気をもらいました”

もらったもんにお前が返せるもんってなんだ。

もちろん、アスリート諸君はそんなもん望んでいやしないし、受け取りもしないんでしょ。だったら受け止めた者の側はせめて自分ばっかくらいに何を奢れるんだろ。

そんなことだってもしかしたらマナーって、例えば呼べるのかも。とか。

 

いかん、ハナシが逸れた。

 

 

 

答えは一つなワケなくて、つまり感動とかってそれが気に食わんとかそんなこと言ってんじゃないです。

 

表現って、その場一つのものだからそれはそれは大変なものだと思うわけです。

だからこその役割とか権利みたいなものが確かにあるのに違いなくて、それはある意味での覚悟とか切腹とか、なんだそりゃ、つまり言わないよりはいえるものの勝ち、っていう価値を認めるに値する威力ってことだと、そんな一部を思ったりもするんですね。

 

 

それを受け止める側である、提供される側であるわたしたちは、はたしてどんな覚悟で、配慮で、判断で、意思で、あるいは価値観でそれを受け入れるのか、受け入れようとするのかってつまり、”何だか感動的だよね” とかって例えばそんなぺらっぺらのやっすいアンテナばっかで人間ばっかと生きてきたはな子ちゃんの所詮像ってそんな気持ちとかなんか所詮人間なんかにわかるはずないじゃんかよ、だからこそのわたしたちって目線はどうなっちまうんだよコラ、ってまた脱線。

 

つまり、”ありがとう” って言う前になんかあるじゃんよ、ってそんなマナーを思いたい。マナー、なんて言い方さえも不愉快に思えるくらいの何かとかさ。

そんな生意気人間の言。

 

 

”すまんかったな”

 

キミは、タイのことを覚えているのかよ。

例えば家族とか、兄弟のこととか。

動物園の方々、飼育員の山川さん(知らない)、その息子さん(知るわけない)、キミがうっかり死なせちゃった人とかもそう、たぶんキミのことものすごく大切にしてくれたんでしょ。

そんな人たちばっかがキミのこの世の全てだったんでしょ。

公園まで幾度となく会いに来てくれた人たちのこととか。

死んでしまったキミについて、悲しんでくれる人たちのこととか。

 

 

お疲れ様でした。すまんかったな。そんな人たちのためにさえ。

 

 

わたし、はな子ちゃんのこと全然知らなかったので、ありがとうなんて簡単に言えないのかもです。

っていうか、”すまんかったな” なんて言い方からすでに上から目線かよと。

人間なんてアホばっか、ってそんなわたしこそ。

 

かっこつけんな。

 

 

 

 

 

ちなみに、先出の動物園は近頃は設備やら人員の体制やらも見直されて、何だか少しずついい感じになってきてるらしいですよ。

タヌキとか臭いし、チンパンジーにいたってはうんことか投げてくるけど、気が向いたときにでも懐かしくふらりと行ってみようかしら。

おっさん一人でたたずんでたら、職質受けるかしら。

ヤバいかしら。